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鬼束ちひろの初期の歌とか、モンドリアンの中期の絵とか、『パッチギ!』の頃の沢尻エリカとか、弾け切ってしまう前の、でも腹の中は沸々滾らせながら作ってるぐらいの作品が、鑑賞者としては一番響くことがある。
作り手の方はその辺りが一番悶々としてる訳だけど。そして遂に弾け切るべくやって行く訳だけど。

茨の海/鬼束ちひろ


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今回の記事は行数僅かで纏めたし、ちょっと分かり難いかなと思っておりましたが、やはり意図が伝わり切っていないかもしれぬ反応を幾つか頂いたので、此処に密やかに追記しておきます。
僕はケバいメイクや衣装の鬼束さんや沢尻さんを、単純に否定しているのではありません。そりゃ1リットルの涙のエリカちゃんが恋しいですけれど、大袈裟に言って、我々誰も、在るようにしか在れない。
鬼束さんの音楽は以前より多彩なものになっている。ロック調だったり、キャッチーなポップソングだったり。御本人の意図することも、また意図しないことも多々あった上で、以前より声擦らせながら、以前より強い節回しで歌うことになっているのだろう。作り手として、と言うか一人間として、そういう変化は必然で不可避だと思うし、共感する。それはちょうど前の記事(Life is a canvas.)で書いたこととも重なる。
一方、聴き手としては、頭振り乱してロックやってそうな奴が、そのマグマを透明なピアノバラードにくるんで歌ってる時にチラと垣間見るくらいが、個人的になり過ぎず一番響く。(そして、そんな危ういバランス状態は当然ながらすぐに崩れる、桜の花弁のように。)
僕の中に作家の視点と鑑賞者の視点両方あって、二つが擦れ違う、しかも宿命的に擦れ違うのがとても切なくて、ブログの記事にしました。タイトルの『君と僕との擦れ違い』は、僕は「僕」にも「君」にもなり得る—鑑賞者でなく鑑賞される側になって、同じ風に思われるだろう必然も感じながら、付けました。
【2013/06/26 05:32】 URL | 山本真也 #-[ 編集]
先生、大丈夫です。その数行で伝わっています。
【2013/06/26 21:32】 URL | 藤原サオリ #-[ 編集]
藤原さん、コメント有り難う御座います。
十数年前、モンドリアンの回顧展を見た際に、上のようなことを強く思いました。
なるほど、こうやってどんどん抽象化して行ったのかと、画家の足跡を噛み締め、同時に、僕の中でのクライマックスは、最後等辺の格子の絵でなく、中盤のデザイン性の強い聖堂や風車や樹木だったんですよねえ。
【2013/06/27 04:49】 URL | 山本真也 #-[ 編集]
花咲くりんごの木、とかでしょうか。

先生のおっしゃる二律背反のダイナミズムこそ生命力であり、作品に込めるものであり、かつ描く原動力そのものなのかしら、、、、、。うーむ、わからん。
畢竟しんどい作業なること想像に難くなく。

私はやはり十数年ともう少し前、教科書で上記を見たとき、「おっちゃん確かえらい変わりもんやて聞いたけど、なあんやポエムなのんも描いたはったんや。芸風広ーい」とべったり思いましたが、んなイージーな話じゃねーよって感じっすね。もうちょっと展覧会は我が事のように見ませんとね。ははは^_^;
【2013/06/30 23:25】 URL | 藤原サオリ #-[ 編集]














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