
切実なる対象を切実なる取り組みでもって表現し、その切実さの発するところが自分の中に唯一無二のものとして意識されていたとしても、見る側にとってはその表現の集まりが一つのものとして認識されない。
自分の中にあるものが”ある”ということ、どんなものなのか、などなど、何かがそれら集まりから感じられなきゃいけないのでしょうね。
いろいろやりながら、自然とそうなったらエェなぁ・・・
私はそうなりたいです。
私らの場合は、やっぱ身内が問題だったかも・・・
画廊が集中した地域で二階で、ってのだったので、フラりと入ってくれる人が少なかった代わりに、変なヤツが入ってくることも無かったので。
身内に限った事ではないかもしれませんが、目の前に居る人の裸体写真が目の前に有るってのにドギマギしちゃう人も居ましたね。
写真はやっぱ絵よりも実物に近いんだ、って印象を持たれますし。
実はそうでもないんですが。
何はともあれ、お疲れ様でした。
無事終了、おめでとうございます。
個展の場で展示された作品を目の前にして聞けた声は、自分の中に強く残る気がします。
創り手たる自分が観覧者と同じ距離でもって作品を作品に対しつつ聞き語る経験は、間接的に知る評価よりもポートフォリオを見せつつ聞く声よりも、より強い体験となるように思います。
私の場合、個展の場では、作品が売れるのもまた何の衒いや疑念もなく嬉しいと思えました。
商売の結果、てな感じじゃなくて、ストレートに作品が評価された結果と思えるからでしょうか。
あ、個展自体の個人的感想を言ってませんが・・・
「どれを見ても凄いなぁ~」の一言でして・・・
いつか自分も、絵でこんだけのモンが作れるようになりたいなぁ、とあらためて憧れるばかりでした。

>くらさん
厳しい気候の中、有難う御座いました。
短い期間で終わってしまい、御免なさい。
次回はお腹はち切れんばかりになって頂けるよう、頑張ります
>takoraさん
お忙しいところ初日早々にお越し頂き、こんなメッセージまで頂いて、有難う御座います。いつもながら感謝感謝です。
仰る通り、鑑賞者の声というものは想像以上に刺激的でした。例えば裸婦クロッキーに対し、「モデルと作家の距離が遠い」との言葉を貰いました。確かに、今回並べた作品のモデルさん達とは友情や芸術的情熱を共有して創作したけれども、愛憎の果てに表れた情人の表情を切り取ったという絵ではない。また、ロートレックやドガが単に踊り子の美しさだけでなく、ベルエポックの闇を合わせ描いたようなドラマ性は、今展覧会のクロッキーの画面には無かった。一方、だからこそ「モデルの造形美と、対しての山本君のその瞬間の感動を純粋に感じられる」という声も頂いた。「美しい、飾りたい絵だわ。あまりに個人的な思いが籠められたものは飾りにくいしね。」
二つの相反する意見を大変面白く聴きました。今後自分は、どんどん“売れにくい”個人的な作品を描いて行くのだろうと予感しながら…

「愛憎の果てに表れた情人の表情を切り取ったという絵」観てみたいです。それこそが血肉を画面に叩き付けることではないかと。期待しております。

今日は帰り遅くなってしまって済みません。でも久々にゆっくりお話出来て嬉しかったです。今度はお邪魔するのを楽しみにしています。
先日個展でお会いした画家の方が、「絵は生き様だ」と話されました。濃密な人生を送り、濃密な絵を描きたいと思います。